2010年6月4日金曜日

カラヤン録音小史 - 05


カラヤンがベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任してから10年後、1965年3月でカラヤンとDECCAとの蜜月関係は終焉を迎える。



以後カラヤンはウィーン・フィルとの関係は保つことになるが、DECCAで録音することは少なくなった。

DECCAの印税の支払いに不透明な部分があり、訴訟問題にまで発展したのが決定的な理由だったのだろう。

しかしそれ以外にもカラヤンの心がDECCAから離れる理由があったのでは?と私は勝手に想像している。

以下は私の推論。



当時、DECCAでカラヤンの録音を仕切っていたのはジョン・カルショー。カラヤンはこの辣腕プロデューサーとの共同作業に少なからず嫌気がさしたのではないだろうか。

カルショーはプロフェッショナルで、裏を返せばとても自我の強いプロデューサーだ。

いくらカラヤンが納得した演奏でも、カルショーがダメ出ししたことは多々あっただろうと思われる。何と言ってもプロデューサーは指揮者を後ろから指揮する、録音現場の最終責任者なのだから。

またカルショーはカラヤンが望んでも、既にDECCAで録音されていた曲はカタログ上で重ならないように、録音を拒否したはずだ。カルショーはDECCAサイドの利益を守る立場にいるプロデューサーなのだから。

話は少し横にそれるが、カルショーには大胆なところもあり、当時は未だ無名に近い曲だったホルストの《惑星》を録音し、カラヤンの知名度を巧みに利用しながら、この曲を一躍有名なものにした。


ホルスト / 惑星
ヘルベルト・フォン・カラヤン
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1961年(DECCA)

ライブ録音のような迫力と臨場感。高度な技術でステレオ録音されるために生まれてきたような曲。



クラシック音楽界の帝王としての地位を確立していたカラヤンにとって、カルショーは、EMIのウォルター・レッグと同様に、自己流が通じない、煙たい存在だったのではないだろうか。

それに当時カラヤンは50代前半、カルショーは40代にさしかかったところ。クラシック音楽界の帝王は若造に意見されるのに少なからず嫌気がさしたとしても不思議なことではない。ちなみにウォルター・レッグはカラヤンより2歳年上だった。



カラヤンのDECCAでの録音はR・シュトラウスの交響詩《ツァラトゥストラかく語りき》で始まり、チャイコフスキーの《眠れる森の美女》組曲と《白鳥の湖》組曲で終わる。


チャイコフスキー / 3大バレエ組曲
ヘルベルト・フォン・カラヤン
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1961年~1965年(DECCA)

カラヤンがDECCAに残した《白鳥の湖》組曲はなまめかしくも美しい。まるでとろけるような甘い果肉。



ウォルター・レッグは1963年にEMIを退社し、ジョン・カルショーは1967年にDECCAを退社する。カラヤンと多くの名盤を生み出した二人の名プロデューサーが録音の現場から姿を消した。

カラヤン録音小史 - 序
カラヤン録音小史 - 01
カラヤン録音小史 - 02
カラヤン録音小史 - 03
カラヤン録音小史 - 04
カラヤン録音小史 - 06 ・・・ つづく
カラヤン録音小史 - 07
カラヤン録音小史 - 08
カラヤン録音小史 - 09
カラヤン録音小史 - 終

update 2010/06/04

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