2002年8月6日火曜日

自分史とワールドカップ / 第6章 / 第16回フランス大会


1997年4月、またしても海外出張が急に決まった。行き先はパリ。

久しぶりの里帰りと言いたいところだが、実はその年の1月に2週間程の休暇をもぎ取り、家族でパリまで行ったところだった。その時息子は1歳6ヶ月で、彼にとっては初めての海外旅行であり、飛行機も初体験だった。

寒い時期に幼い息子を連れてパリまで行ったのにはちゃんと理由がある。なぜなら2歳になると幼児料金を取られるので、未だ無料で国際便に乗れる間にパリまで里帰りすることに決めた訳だ。エア・ラインはオランダのKLMを使い、コースは大阪発 - アムステルダム経由 - パリ着だ。

KLMはとても親切だった。狭いエコノミークラスのシートで幼児を抱えている我々の姿に哀れを感じたのか、格安チケットで搭乗した子連れ3人家族を無料でビジネスクラスへ移してくれた。お陰で行きも帰りも快適なフライトを楽しむ事が出来た。

さて、出張の話に戻る。

パリは自分の庭みたいなものだから、ある意味では東京出張より楽チンだ。最初の2日間で仕事を片付け、残りの2日間を “有意義” に過ごしたのは言うまでもない。

そして最終日、短期間の出張だから荷物はそれ程無いので、高速地下鉄RERでシャルル・ド・ゴール空港まで行くことも考えたが、結局タクシーで空港へ向かうことにした。

都心環状を抜けて、タクシーがパリ北東部に位置するサン・ドニ市にさしかかった時、高速道路の右側に突如、UFOに似た巨大な建築物が現れた。

それはスタッド・ド・フランス。来年開催されるワールドカップ・第16回フランス大会の開幕戦と決勝戦が行われる舞台だ。

フランスは自国開催ということもあり、予選を戦わずして大会に出場出来る。しかし日本は出場出来るのだろうか?



日本は何とか念願の切符を手に入れ、ワールドカップ初出場が決まった。しかし世界の壁はあまりにも高く、強豪アルゼンチンには1 - 0、ユーゴスラビアから分割・独立したクロアチアにも1 - 0、唯一勝機があると思われていたジャマイカには2 - 1と全敗し、1次リーグで姿を消す。



第14回イタリア大会からご贔屓にしているオランダはピリッとしなかった。1次リーグではベルギー戦とメキシコ戦に引き分け、韓国戦には5 - 0で大勝するが、オランダ本来の力は未だ出ていなかった。KLMに親切にしてもらったからではないが、頑張ってもらわないと。

しかし決勝トーナメントに入ってからオランダは調子を上げてきた。1回戦ではデニス・ベルカンプとエドガー・ダーヴィッツがゴールを決め、2 - 1でユーゴスラビアを下し、準々決勝のアルゼンチン戦ではをパトリック・クライファートとベルカンプがゴールを決め、同スコアの2 - 1で準決勝へ駒を進める。次のブラジル戦に勝てば、別ブロックで勝ち進んでいるフランスと決勝で当たるかもしれない・・・。  

だがオランダの健闘もここまでだった。

対ブラジル戦、後半残り時間僅かのところでクライファートがなんとか同点ゴールを決める。しかし延長後のPK戦では4 - 2で敗れ、夢の対フランス戦は消え去って しまった。そして3位決定戦でもオランダは2 - 1でクロアチアに敗れてしまう。オランダはいつも魅力的なサッカーを見せてくれるが、強いのか、脆いのか、不思議なチームだ。

※ 前大会では準々決勝で、今大会では準決勝でオランダはブラジルに敗れるも、お互いに噛み合うのか、いずれも素晴らしい試合だった。



今回のフランスチームは、エース・ストライカーが不在で、得点能力には不安があった。しかしチームバランスに優れているという点で第13回メキシコ大会に出場したフランスチームに似ていた。なんと言ってもプラティニの後継者、ジネディーヌ・ジダンを中心に、ディディエ・デシャン、エマニュエル・プティ、ユーリ・ジョルカエフで構成される素晴らしいMFは前回出場チームのそれと比べても何ら遜色が無い。

唯一大きく異なるものはGKのルックスだ。見事に剃りあげられた輝くスキンヘッドのGKファビアン・バルテズはモジャモジャロングヘアーのジョエル・バッツとは正反対の風貌だった。

フランスはブラジルとの決勝戦を3 - 0で制した。ジダンに前半だけで2ゴールを許し、動揺したブラジルは試合を立て直すことができなかった。後半、マルセル・デサイーの退場でフランスは10人となったが、ブラジルの攻撃を退け、終了間際にはプティがカウンター・アタックから3点目を奪った。

結果としてはこれまでの決勝で最も一方的な試合展開だった。当時、間違いなく世界最高のFWだった “20世紀最後の怪物” ロナウドは決勝前夜にコンディションを崩し、彼とブラジルにとっては残念な試合結果となった。



それはフランスにとって長い道程だった。

1993年11月17日、パリで悲劇は起きた。

アメリカ大会予選の最終ブルガリア戦。スコアは1 - 1の同点。あと何十秒を耐えれば大会出場が決まる。しかしブルガリアのシュートがゴールネットを揺らした。フランス版 “ドーハの悲劇” が起こり、フランスは2大会連続の予選落ちが確定した。そんなブルガリア戦を経験していたブラン、デサイー、プティ、デシャンは同じパリで初優勝を勝ち取り、その嬉しさは格別だっただろう。

フランスの勢いはとどまらず、2年後のEURO2000(欧州選手権)でも優勝し、フランスはこれで完全復活したと思われた。



第16回フランス大会
1998年6月10日~7月12日

78年大会のアルゼンチン以来、久しぶりに開催国が大会を制した。

日本が始めてワールドカップの舞台に立った、記念すべき大会でもある。

本大会から出場国が32ヶ国となる。それまでは出場チーム数が24で、予選各組で3位であっても成績上位4チームが決勝トーナメントの16チームに入ることが出来たが、このような救済は不可能になった。つまり1次リーグでの勝敗がきわめて重要なものとなり、そのため、各チームは守備を固めるのだけではなく、得点を挙げることに全力をあげた。その結果、ティエリー・アンリ(フランス)、マイケル・オーウェン(イングランド)といった若手FWが登場することになった。

イングランド対アルゼンチン戦は大会屈指の名勝負であり、同時に新たな遺恨を生み出す試合となった。

前半には 18歳の “ワンダーボーイ” マイケル・オーウェンが高速ドリブルからスーパーゴールを決める。後半、デビッド・ベッカムは自分を故意に倒したディエゴ・シメオネを蹴って退場となり、イングランドは10人で戦うことになる。延長戦でも勝負は決まらず、PK戦の末にアルゼンチンがイングランドを破る。イギリスのメディアは敗因をベッカムに押し付け、「10人の英雄的なライオンと1人の愚か者」とベッカムをこき下ろす。

得点王には6ゴールを決めたダボール・スーケル(クロアチア)が輝く。

update 2002/08

自分史とワールドカップ / 第1章 / 第11回アルゼンチン大会
自分史とワールドカップ / 第2章 / 第12回スペイン大会
自分史とワールドカップ / 第3章 / 第13回メキシコ大会
自分史とワールドカップ / 第4章 / 第14回イタリア大会
自分史とワールドカップ / 第5章 / 第15回アメリカ大会
自分史とワールドカップ / 第7章 / 第17回韓国・日本大会
自分史とワールドカップ / 第8章 / 第18回ドイツ大会

0 件のコメント:

コメントを投稿