2009年12月8日火曜日

自分史とワールドカップ / 第8章 / 第18回ドイツ大会


2006年3月、私は2年間続いた赤字事業の清算にあたふたしていた。

2004年の春から大手新聞社と共同で運営していた健康関係の情報紙は創刊号のみ黒字を叩き出すことが出来たが、その後は赤字続きで悩みのタネだった。

無料配布するフリーペーパーだけに広告収入が頼りだったが、薬事法うんぬんによる広告表現上の規制や関西エリアのみ限定配布というあたりがウイークポイントで、十分な広告を確保出来ず、結局約2年でその情報紙は廃刊となった。

とにかく広告集稿に四苦八苦の2年間だっただけに、廃刊が決まった時にはある意味でホッとした。

上司から「2年間難儀な仕事、お疲れさん。まぁ2~3ヶ月はのんびりしてくれ」みたいな言葉は一切無く、4月からの担当業務が直ぐに決まった。(当たり前ですねぇ)



「あのなぁ~、急やけどなぁ~、4月からショッピングセンター〇〇〇〇へ出向みたいな形で行ってくれ」

以前にも多くのショッピングセンター(以下SC)の広告、催しなどを企画・営業として担当していたことがあるだけに、私にお鉢が回ってきたようだ。

だからSCの仕事の難儀さは良く知っている。1ヶ月に1回程度のペースで広告を打ち、催しは1週間~2週間に1回のペースで、土・日・祝にはなんやかんやとイベントを開催する。そして館内装飾などの入れ替え。これが1年間、休み無く続く。そして経費管理など・・・。

とりあえず業務内容を確認すると、私と制作担当ディレクター2人で〇〇〇〇の広告、催しを全て仕切れとの事。

担当するSCはキーテナントの某百貨店と、その隣に出店する約90店の専門店により構成されている。

この規模のSCなら企画・運営・発注に携わる広告担当者1名、催し担当者1名が最低でも必要で、業務を受注する広告関連会社の営業担当者1名、企画プランナー1名、制作担当ディレクター1名、合計5名程度で切り盛りするのが普通だ。

しかし先方の都合、人員削減により、私たち2人で広告、催しを全て仕切れというのだから、滅茶苦茶忙しくなるのは火を見るよりも明らかだった。



そんな、とんでもない忙しさに突入して、四苦八苦していた時期に第18回ドイツ大会は開催された。

今回ほど開催地と日本との時差に難儀し、しんどい思いをして観戦した大会は無い。青息吐息で何とか仕事をこなし、体は疲れきってはいるが、どうしても試合を録画で観る気になれず、欠伸を連発しながら何度早起きしたこどだろうか。



日本代表の初戦は6月12日(月)、現地時間15時、日本時間22時に始まった。

ロックグループのデビューアルバムにはその後の傾向の全てが凝縮されている場合が多いが、日本代表の良さ・悪さも6月12日の対オーストラリア戦に凝縮されていたような気がする。

前半は好調に飛ばすが、後半からは確実にバテる。

対オーストラリア戦では中村俊輔が前半約26分にワールドカップ初ゴールを決めるが、後半約11分にDFの一角、坪井慶介が足をつり、途中退場。

策士、フース・ヒディンク監督は日本のペースダウンを見越したようには後半から約10分毎にフレッシュな選手をピッチに送り出す。ケーヒル、アロイージ、そして長身のケネディ。いずれもが前線から日本ゴールにプレッシャーをかけ続ける。

そして終了間際の後半約39分から日本は連続3ゴールを許し、なんとか逃げ切れば勝てそうだった初戦を落とす。

後半戦に勝負を賭けたヒディンク・オーストラリアと1点をリードして後半戦では受身に回ってしまったジーコ・ジャパンの違いと言えばそれまでだが、ジーコの指揮はあまりにも無策だった。

次の対クロアチア戦では後半約6分の絶好の場面で柳沢敦がシュートを外し、結果は負けとイコールの引き分け。これでグループリーグ敗退は決定的となる。第3戦の相手はブラジルなのだから。

対ブラジル戦では前半約34分に玉田圭司が先制ゴールを決める。しかし前半のロスタイム中にロナウドに1ゴールを決められて同点で後半戦を迎える。そして後半戦でブラジルは日本に圧倒的な力の差を見せつける。

ブラジルは後半に日本から3ゴールを奪う。しかしそれでも試合が終りに近づくにつれて、まるで猫が鼠をいたぶるように、手も足も出ない日本の選手たちを走らせ、疲弊させる。それは確実に勝ち、逃げ切るための恐るべき試合支配力とボールコントロール技術だ。対オーストラリア戦で日本がこんな試合運びが出来ていれば・・・。



圧倒的な強さを見せつけたブラジルは準々決勝であっけなくフランスに敗れた。

そして決勝に駒を進めたのはイタリアと下馬評が非常に低かったフランスだった。

イタリアの戦力も圧倒的なものではなかったが、フランスの戦力も同じようなもので、元気印の新人リベリーなど若手も伸びてきてはいたが、8年前からワールドカップに出場している老兵(失礼!)GKバルテズ、DFテュラム、MFジダンなどが未だ中心選手の、老朽化したチームだった。

そんな予想外の組合せの決勝戦・延長戦後半で起こったのが、予想外のハプニング、ジダンのマテラッツィに対する “頭突き事件” だ。

ジダンはレッドカードで一発退場。予想外の形でサッカー人生を終えることになる。

結局、最後の最後でジダンを欠き、ジダンの花道を飾ろうと、老兵たちを中心に結束していたしていたフランスはイタリアの堅牢な守備を崩しきれず、PK戦に持ち込まれ、敗れ去る。

イタリアは開幕直前にカルチョ・スキャンダルが勃発し、代表チームに与える精神的な影響も少なくないと言われていたが、それをバネにして勝ち上がり、優勝を決めたのだろうか。



第18回ドイツ大会
2002年6月9日~7月9日

前大会は優勝候補の強豪国が次々と敗れ去り、“下克上の大会” だったが、今大会では同様の大きな波乱は起こらなかった。

グループリーグでの唯一の下克上と言えるのは、知将カレル・ブリュックナー率いるチェコの、対ガーナ戦の敗北による、グループリーグ敗退だろうか。

しかしどんな大会でも番狂わせは起こるもので、南米の強豪、アルゼンチンとブラジルが準々決勝で姿を消した。

開幕前の下馬評が低かったドイツはアルゼンチンに、ジダンの花道を飾ろうと意地を見せたフランスはブラジルに勝利した。

グループリーグでは “最も華麗なチーム” と呼ばれたアルゼンチンと、何といってもロナウド、ロナウジーニョ、アドリアーノ、カカの4人による “Quarteto Magico / カルテット・マジコ = 魔法の4人組” を擁するブラジルが敗退したのは大いなる番狂わせだ。

ちなみに前年の2005年にはロナウジーニョが “バロンドール” を獲得していたこともあり、開催前は “ロナウジーニョのための大会” になるだろうと言われていたが、良くも悪くも、第18回ドイツ大会は “ジダンのための大会” となった。ジダンは “頭突き事件” にも拘わらず、大会中の活躍が評価され、MVPに選出された。

得点王には5ゴールを決めたミロスラフ・クローゼ(ドイツ)が輝く。

update 2009/12/08

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