2010年6月4日金曜日

カラヤン録音小史 - 02


今回は録音の話から少し離れるが、カラヤンがクラシック音楽界の頂点へ一気に昇りつめた時の話。



1954年11月30日、カラヤンの “目の上のたんこぶ”、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが肺炎で死去。享年68歳

首席指揮者フルトヴェングラーの死去に伴い、翌年1955年2月から始まるベルリン・フィルの第1回アメリカ公演の指揮者に、アメリカ側のマネージメント会社であるCAMI (Columbia Artists Management Inc. ) はカラヤンを指名する。

この頃から流れは次第にカラヤンへ傾きだす。

このアメリカ公演は当時の西ドイツ首相、コンラート・アデナウアーが立案したもので、1948年6月ソ連によるベルリン封鎖事件時、アメリカ軍が物資を空輸してくれたことに対するお礼としての意味合いがあった。

これを受けたアメリカ側のCAMIは何故カラヤンを指名したのか?

“レッグ&カラヤン・ファクトリー” から生み出された多くのレコードにより、カラヤンは既に国際的な知名度を得ていた。これは大きな理由の一つ。

しかし意外な事にカラヤンがナチス党員であったことも大きな理由の一つだ。

旧敵国のオーケストラ+ナチス党員だった指揮者のアメリカ公演さえも成功させることにより、CAMIは音楽家のマネージメント会社としての実力を証明し、ステイタスを確立させ、多くの優れた音楽家を囲い込もうという魂胆を持っていた。

なにはともあれ、カラヤンはアメリカ側が自分の味方についたことにより、アメリカ公演を引き受ける代わりに、ベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督の地位を強く要求することが出来た。

ベルリン・フィル側は、アデナウアー首相の肝いりプロジェクトだけに、何としても翌年のアメリカ公演を無事に成功させなければならないというプレッシャーがあった。

1955年2月27日、ワシントンD.C.での最初のコンサートから始まり、4月1日、ニューヨークのカーネギー・ホールでのコンサートでアメリカ公演は終わる。そしてカラヤンはベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任する。

1956年4月、カラヤンはベルリン・フィルとの正式な契約書にサインを交わす。

1956年6月、カラヤンはウィーン国立歌劇場総監督に就任する。

これは身勝手な振る舞いや運営上のミスから強烈な批判を受けていたカール・ベームが突然辞任してから3ヶ月後の出来事。当時ウィーン国立歌劇場側はベルリン・フィルにカラヤンを独占されるのを危惧していた。

カラヤンはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を存分に指揮できるようになった。

1956年10月、カラヤンはザルツブルク音楽祭の芸術監督に任命される。

これは長い間カラヤンの出演を妨害していたフルトヴェングラーが1954年に亡くなってから2年後の出来事。フルトヴェングラーの死後、ザルツブルク音楽祭側は話題性と集客力のある指揮者を必要としていた。

カラヤンはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率い、音楽祭を自分のカラーに染め直すことが出来るようになった。


こうしてカラヤンはベルリン・フィルとウィーン・フィルという由緒あるオーケストラ、格式あるザルツブルク音楽祭の芸術監督のポジションを手中に収める。

ヘルベルト・フォン・カラヤン、48歳。

フルトヴェングラーの死後、流れは全てカラヤンへと向かい、クラシック音楽界の権力がカラヤンに集中し、“帝王”と呼ばれる指揮者が生まれた。

カラヤン録音小史 - 序
カラヤン録音小史 - 01
カラヤン録音小史 - 03 ・・・ つづく
カラヤン録音小史 - 04
カラヤン録音小史 - 05
カラヤン録音小史 - 06
カラヤン録音小史 - 07
カラヤン録音小史 - 08
カラヤン録音小史 - 09
カラヤン録音小史 - 終

update 2010/06/03

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