2009年11月28日土曜日
自分史とワールドカップ / 第7章 / 第17回韓国・日本大会
2002年3月、息子は幼稚園を卒園し、4月に小学校へ入学する。
我が社の営業部には久しぶりに新卒採用の男子が配属され、酒の飲み方も含めて、何故か私が教育係として “花の新卒” Y田君の面倒をみることになる。
そして私は、ある大手外食産業会社の広告を受注するため、手始めにその関連子会社が運営する飲食店チェーンの広告、販売促進ツールの制作などを担当することになった。
そんな訳で、2002年の春は卒園式、入学式、、新人君のお世話、業務の引継ぎ等で本当にバタバタしていた。
さて、私が担当していた飲食店チェーンの広告、販売促進ツールの制作などの業務だが、これが難儀だった。
先方の窓口は代表取締役専務のS営業部長だったが、超独裁的な方で、スケジュールの変更、土壇場の発注などは日常茶飯事。あ~だ、こ~だと毎日意見が変わるし、いやはや、振り回されました。
ある時は伊丹空港まで出向き、S営業部長と空港の待合室で広告原稿を最終確認し、その後に印刷会社の校正室へ直行し、訂正部分を指示、なんとかチラシの印刷を間に合わせた。
ある時は地域によって麺類の名称と中身が違うので、メニュー上での表記も地域ごとに変えるべきだと提案すると、S営業部長は激怒。
例えば関東で “たぬきうどん” といえば一般に天かすを散らしたうどんのことだが、大阪には “たぬきうどん” は存在しない。また同じ関西でも京都で “たぬきうどん” といえば刻んだ揚とおろし生姜がのったうどんのことだ。
こんな場合、地域別にメニュー上での表記も変えるべきだと思うのだが、S営業部長は頑として首をタテに振らず、関東も関西も “たぬきうどん” = 天かすを散らしたうどんの写真をメニューに掲載しろと言い張り、各地域の担当者と頭を抱えた。
結局、“たぬきうどん” = 天かすを散らしたうどんの写真を掲載したメニューは関西地区で大不評を買った。
こんなS営業部長が広告、販促ツール制作の窓口だから、新店舗がオープンする前のドタバタは大変なものだった。
そして私にとって本当にタイミング悪く、2002年6月19日に埼玉県・春日部市に直営の新店舗がオープンすることになった。
それは第17回韓国・日本大会の決勝トーナメント第1回戦・日本対トルコ戦の翌日だ。
オープン前々日、なんとか新店舗用のメニューや卓上POPの印刷が終り、翌日、つまりオープン前日であり決勝トーナメント第1回戦・日本対トルコ戦の当日には春日部の新店舗に届くように宅配便の手配を終了した。
そしてその旨、S営業部長に報告すると、
「もしもメニューや卓上POPが届かなかったらどうするつもりだ。責任とれるのか!」と一喝される。
こうなれば売り言葉に買い言葉。
「判りました。私が明日お届けにあがります!」
楽しみにしていた決勝トーナメント第1回戦・日本対トルコ戦の当日、重たいメニューや卓上POPを担ぎ、“人間宅配便” と化した私は大阪から春日部へと向かった。
そして無事に配達を終えてヘトヘトに疲れ、上野駅まで戻ったところで、設置されていた大型ビジョンで日本対トルコ戦の結果を知ってしまった。
トルコに0 - 1で敗れ、日本代表のワールドカップは終り、私のワールドカップも最悪に近い形で部分的に終わった。
フィリップ・トルシエが指揮した日本代表は善戦した。
自国開催で予選が免除されたり、ホームアドバンテージがあったとしても、対ベルギー戦に引き分け、対ロシア戦、対チュニジア戦に勝ち、グループリーグを一位突破したことは快挙と言えるだろう。
個人的には激しいマークでカードギリギリのタックルやディフェンスを連発した、真っ赤なモヒカン男 “レッドルースター” 削り屋・戸田和幸を日本代表のMVPに推したい。
初戦の対ベルギー戦と次の対ロシア戦で1点づつゴールを決めた稲本潤一や開催直前の練習試合で鼻骨骨折し、本戦ではフェイスガードを付けながらプレーした “バットマン” 宮本恒靖の活躍は見事だったが次点としておこう。
我がご贔屓のフランスとポルトガルは揃ってグループリーグで姿を消す大波乱。
前回のフランス大会で優勝を決めたフランスは1分2負でグループリーグ最下位という眼も当てられない惨憺たる結果に終わる。大黒柱のジネディーヌ・ジダンが大会直前の韓国代表との親善試合で負傷し、なんとか出場出来たのが最後の対デンマーク戦だけというのが痛かった。
ルイス・フィーゴ、マヌエル・ルイ・コスタという “黄金世代” を揃えたポルトガルも調整ミスや対韓国戦でのカード多発によりグループリーグ3位で姿を消す。
ポルトガルのグリープリーグ最終戦は同リーグ1位通過を目指す韓国との一戦。
この試合でジョアン・ピントは前半27分頃に一発レッドカードで退場。ベトは後半21分頃に2度目の警告で退場。いくらポルトガルでも後半にわずか9人だけになると、コンディションも良く、モチベーションも高く、その上にホームアドバンテージまである韓国の猛攻を防ぎきれず、ついに1点を失う。ご贔屓ルイ・コスタの姿も見れず、淋しくも暗く、後味の悪いポルトガルの敗戦だった。
この大会は、ポルトガルに対するカード多発も含み、韓国に有利な判定(誤審)が連発され、大きな問題になった。
トッティのシミュレーション判定による退場(ラウンド16:韓国対イタリア戦の延長前半約13分)、モリエンテスのゴールをファールとした判定(準々決勝:韓国対スペイン戦の後半約5分)、ホアキンのセンタリングがラインを割ったという判定(同じく準々決勝:韓国対スペイン戦の延長前半約2分)。
対ポルトガル戦に続き、決勝トーナメントでは2試合連続して韓国に有利な判定が下された訳だ。スペインは貴重な2点が取り消され、“無敵艦隊” は韓国の地で轟沈した。
決勝に勝ち進んだのは徐々にチームのコンディションを上げていったドイツとブラジルだった。
そして優勝したのは前回のフランス大会で準優勝に終わったブラジル。
ブラジルの絶対的エース、ロナウドはフランス大会の決勝戦前日に原因不明の発作に襲われ、出場が危ぶまれた。しかし何とか出場する事は出来たが満足なプレーからは程遠く、結局ブラジルはフランスに3 - 0で敗れた。
4年前の借りを返さんばかりに韓国・日本大会の決勝戦でロナウドは大暴れ。2ゴールを決めてブラジルに勝利をもたらす。
ブラジルとロナウドのリベンジで韓国・日本大会は幕を閉じた。
第17回韓国・日本大会
2002年5月31日~6月30日
初めてアジアにで開催されたワールドカップ。そして開催国は日本と韓国による2国共同開催という形が初めて採用された。
また日本と韓国の気候、梅雨、が考慮されて従来の開催日より約10日~2週間程度早く開催された。このような日程のためか、ヨーロッパの長い過酷なシーズンを終えた選手たちは十分な休息が取れず、優勝候補と目されていた強豪国が次々と姿を消していった。
特にフランスは1ゴールも奪えず、1勝も出来ずに大会を去っていった。ティエリ・アンリ(プレミアリーグ)、ダビド・トレゼゲ(セリエA)、ジブリル・シセ(リーグ・アン)と3ヶ国の得点王をFWに揃えながら無得点に終わった。
我がご贔屓のオランダは大の飛行機嫌いで知られるエースのデニス・ベルカンプが代表から引退したためか、まさかの予選落ちで出場せず。残念。もう一度オランダ対ブラジル戦が見たかった。
またエリック・カントナ風の直情的熱血漢、アイルランド代表のロイ・キーンがアイルランド・サッカー協会とのトラプルで、キャンプ地のサイパンからワールドカップに参加しないまま帰国を命じられたのも残念。
初出場の若造(失礼!)、ミロスラフ・クローゼ(ドイツ)は初戦の対サウジアラビア戦でハットトリック、続く対アイルランド戦、対カメルーン戦でも1ゴールを決めて、グループリーグの3試合だけで5ゴールを荒稼ぎ。クローゼが得点王に輝くだろうと誰もが思っていたが、決勝トーナメントに突入してからは失速し、無得点に終わる。
得点王には8ゴールを決めた貫禄のロナウド(ブラジル)が輝く。
update 2009/11/28
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自分史とワールドカップ / 第6章 / 第16回フランス大会
自分史とワールドカップ / 第8章 / 第18回ドイツ大会
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