2004年1月15日木曜日

競技と表現のバランス


格闘技はどうやって生まれたのか?

オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』で、「人間とは遊ぶ存在であり、人間にとって遊びとは創造的で独創的で文化的なものである」と述べている。

子供や子犬、子猫たちがじゃれあう姿を見ていると、案外格闘技の起源はこのあたりにあるのではないだろうかと思えてくる。じゃれあいが進化するとそこには競技性(闘争)と演技性(表現)が生まれてくる。この相反する方向性が遊びの中核となることをホイジンガは指摘している。

格闘技は遊びがスポーツへと変容する過程の初期段階で生まれたのではないだろうか。ならば格闘技にもそれが生まれた時点から競技性だけではなく、演技性が内蔵されているはずだ。



レスリングやボクシングの原型を作り上げ、肉体と精神のバランス至上主義を生み出した古代ギリシャ人はこの問題を理解していた。

古代ギリシャの彫刻(レリーフ)や絵画(壷絵)などには度々レスリングをする人々が描かれている。それは均整のとれた肉体の美しさと共に、そのポーズの造形的な美しさをも見事に表現している。

古代ギリシア人にとって、競技における美しさは競技における強さと同等の価値を持っていたのだろう。この二つの絶妙なバランスがハルモニア(調和)を生み出すと考えていたからだ。古代ギリシャ人はこの美の瞬間を捉えるために彫刻、絵画技術を駆使した。



この相反する二つの要素、競技性と演技性はお互いに抑止力としても機能し、一つの方向に格闘技が暴走することを制御する。非人間的で殺伐とした戦いへと向かわない為に、そして単なる形式に堕落しない為に。



最強の競技者は最高の表現者



古代ギリシャ人は系統の異なるレスリングとボクシングを組み合わせ、パンクラチオンという競技を作り出した。組技系と打撃系を合体させることにより、最強の 競技と最高の表現の実現を目指したのだろう。しかしパンクラチオンがレスリングやボクシングのように進化せず、衰退したのはそれがハルモニア(調和)を構築出来なかったからではないだろうか。

プラトンの言葉をかりれば 「不完全なレスリングと不完全なボクシングの合体である」というように、パンクラチオンには激しさから生まれる過剰な競技性はあったが、高度な表現性は無かったのだろう。しかし格闘技がその表現部分を完全にを排除し、競技部分だけを抽出・進化させると、それは戦闘用のものに生まれ変わる可能性もある。その技術は人間関係内での遊びが破綻し、殺意が生まれた時点で使用される。

遊び心から生まれた競技性(闘争)と演技性(表現)のバランスが崩れ、競技から闘争へと進む格闘技は “心と体の軍拡” とでも呼ぶべきものだ。古代ギリシャ人はパンクラチオンにその危険な可能性の予兆を見たのだろう。

最強を究極目標とする格闘技は遊びからの離脱であり、遊ばない非人間的、非文化的なものではないだろうか。



「プロレスとは闘いだ」、「闘いには美しさが必要だ」、「観客の心を操る」等々、一見矛盾しているようなアントニオ猪木の発言を読み解く鍵が “遊び” の中に隠されている。

update 2004/01

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