2004年1月10日土曜日

格闘技とスポーツの境界線


格闘技はスポーツなのだろうか?

身体を鍛え、動かし、そして相手と競うという点ではスポーツのようだ。

だが個人的には格闘技にはスポーツ化されたものと、未だスポーツ化されていないものが混ざり合っているジャンルではないだろうかと思っている。

そんな訳で今回はスポーツとは何かという難題に挑んでみることにした。



フィジカル面だけからではスポーツは定義出来ないだろう。例えばバレーダンサーのトレーニング量は一般にスポーツと定義されているものと比べても何ら遜色は無い。彼らの筋肉質な身体や彼らのパフォーマンスを見れば、それがどれだけの練習の賜物かは一目瞭然だ。肉体鍛錬度と肉体運動力の質と量はスポーツの大きな部分ではあるが、それだけではない。

では相手と競うというコンペティション面からみるとどうだろう。相手と競うにはお互いが納得する一定のルールが必要だ。どちらにとってもフェアに競える設定が無ければコンペティションは成立しない。この基本的な設定を理解し、その範囲内で一番効率的な動 きが出来るように肉体を鍛えるのがスポーツの前提ではないだろうか。

つまりスポーツには明確なルール設定があり、それがどれだけ認知され、それがどれだけ普及し、普遍化しているかによるのではないだろうか。

スポーツが競技であるなら、それを成り立たせる為のルールは守らなければならない。だがそれが芸術表現であるならば、そこには守らなければならないルールは無い。

伝統という名で呼ばれる芸術表現上のルールに近いものは、単なる因習である場合が多い。新たな表現を生み出すには過去のルールの破壊が必要なのだ。



Love the Rule ?



ルー ルが確立され、競技人口が増える。そしてその過程でその競技は広域に認知される。そういった過程で生まれてきたものがスポーツではないだろうか。競技人口数と競技の管理をする国際組織の存在などが、その競技の普及・普遍化、つまりスポーツであるかどうかを判断する基準ではないだろうか。

明確なルールの設定、そこから生まれた広域エリアの競技人口数と競技の管理体制という視点から見ると、例えばボクシングや柔道、アマレスなどはスポーツとなるが、相撲や空手、キック・ボクシングなどは未だスポーツ化されていないと言えるのではないだろうか。



スポーツ化に伴い、その競技は “土着的” な色合いを失い、“国際化” されたものになる。それの良し・悪しは誰も判断できない。だが今日行われているK-1や総合格闘技では未だスポーツ化されていないものを興業の論理で無理 矢理スポーツ化させているのではないだろうか?

格闘技は自らに対して妙なコンプレックスを抱いているようだ。スポーツと呼ばれることがそれ程大切なのだろうか?スポーツ上位論的な考え方なんか必要ないだろう。

境界線上の “アクとクセ” のある世界が格闘技の面白さだと思う。

update 2004/02

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