2009年9月26日土曜日

プロフィール


血液 : AB型
視覚 : 標準であったが現在は老眼
聴覚 : 良好
嗅覚 : 敏感
味覚 : 鈍感
基礎体温 : 36.4程度
知能指数 : 人並程度
食欲指数 : 人並以上
根気指数 : 人並以下
身長 : 170cm程度
体重 : 73kg程度
靴のサイズ : 26.5cm
生息地 : 大阪府富田林市

1956年春、大阪は南河内の八尾市、山本に生まれる。

祖父によく散歩に連れて行ってもらった思い出がある。

近所の寺、天台院の住職は今東光だった。

幼稚園の頃、裏の家の子供と仲が良かった。
そこで食べさせてもらったチキン・ラーメンの美味しさに感激する。

5歳の頃、祖父が枚方に新築の家を建てる事になる。

工事が終るまでの約1年間を大阪市天王寺区の寺町、上六で過ごす。
風呂の無い、小さな長屋だった。

風呂は祖父の妹が住職をしていた近所のお寺(梅松院)にもらい湯に通っていた。

長屋の前にベッド・メーカーの工場があった。
そこのゴミ捨場がスポンジだらけなので、毎日そこで飛び跳ねて遊ぶ。

長屋の裏は墓地で、墓石の上で遊んでは祖母に叱られていた。

近所の時計修理人が殺害され、子供ながらショックを受ける。

この頃、祖父が外出する時には同伴し、好物のタマゴうどんを必ず食べさせてもらった。

小学校1年生の夏に枚方へ引っ越す。

この頃、初めてスーパーマーケットを体験する。
なぜか陳列された商品を落ちているものと思い込み、ポケットにお菓子をどっさり入れて店を出る。万引きと思われ(誰でもそう思う)、店員にえらく怒られる。

当時、一番好きな食べ物はオムライスだった。

祖父と一緒に南海ホークスや力道山の試合をTVで観るのもこの頃から。
南海ホークスのファン、プロレス・ファンとしての自覚と責任に目覚める。

小学校3年の夏に豊中の庄内に引っ越す。
そして中学2年の夏まで庄内に住む事になる。

庄内での小学生時代が一番楽しい頃の思い出として残っている。
小学校5年、6年の頃は担任の先生にも恵まれ、楽しい学童生活を過ごす。

※ 在籍していた小学校
大阪市立真田山小学校 1年生~1年生・夏
枚方市立五常小学校 1年生・夏~3年生・夏
豊中市立野田小学校 3年生・夏~6年生

残念ながら中学は全く面白くなく、勉強嫌いに拍車がかかる一方となる。

仲間とプロレスごっこをしている最中に誤って窓ガラスに頭から突入。額をザックリ切って、大流血。目に血が入ると何も見えなくなる事を体感。その傷跡は今でも額に残っている。

中学2年の夏に富田林に引っ越す。

転校先の中学では先生や友達に恵まれる。
ロックと映画に開眼するのもこの頃。

1970年3月15日、大阪万博 “EXPO70” 開催。

※ 在籍していた中学校
豊中市立第六中学校 1年生~2年生・夏
富田林市立金剛中学校 2年生・夏~3年生

1971年3月、義務教育終了。

1971年4月、大阪市内の阿倍野区役所に隣接する大阪市立工芸高校に入学。
油絵を始めるのもこの頃から。一気にのめり込む。

1971年7月、夏休み前の生徒会で制服廃止が決定。
以後、長髪とジーンズで勝手気ままな高校生活を送る。

高校2年になった直後、又しても枚方へ引っ越す。

高校3年にして初めてフランス文学に接し、感動。一気にのめり込む。

1974年3月、大阪市立工芸高校を卒業。

本当は芸大に進学したかったが、不条理な実技試験と旧態依然とした学部・学科システムに嫌気がさす。こんな気持ちで芸大の受験に合格するはずもなく、不合格。

実は受験前夜、気分転換に観たブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』に大興奮。受験失敗の本当の原因はこの映画のを観た為か?

スペインの画家が好きだった事もあり、大学進学を中止し、スペイン行きを決める。
先立つものが必要となり、アルバイト、アルバイトの時期に突入。

スペイン出発は1975年9月、伊丹空港から。
台北 ≫ 香港 ≫ ニュー・デリー ≫ フランクフルト ≫ グラナダという南回りコース。
台北に一週間ほど滞在。国立故宮博物院を訪れ、所蔵品の質・量に圧倒される。
ニュー・デリーでは暑さに驚き、フランクフルトでは寒さに驚く。

グラナダで1ヶ月過ごした後、サラマンカへ北上。

1975年11月20日、フランシスコ・フランコ死去。
第二次世界大戦前から続いていた独裁政権も終焉。民主化の季節が訪れる。とんでもない時代の節目に居合わせた。

スペイン語を勉強し、ヒッチ・ハイクで旅行をしたり気ままな生活を約2年半過ごす。
それにしても当時のスペインの物価は安かった。

どうしても美術史関係の勉強がしたくなる。
当時のスペインの大学には日本の高校卒業資格だけでは入学出来なかった。それに面白そうな美術史関連の学部のある大学も見つからず、フランスへ引っ越す事を決定。

1978年12月、サラマンカからパリへ引っ越す。
当時はパンク・ロックの最盛期。パリの盛り場はツンツン・ヘアーに犬の首輪、ボロボロの黒い皮ジャンと裂けたジーンズを身にまとったパンクな連中だらけだった。

高校卒業資格のある日本人は大学が実施するフランス語理解力テストに合格すれば大学入学が許可される。そんな訳で約半年間、フランス語を猛勉強。フランス語習得にスペイン語の知識が大いに役立った。

1979年9月、フランス語理解力テストになんとか合格する。今では大学事務所の採点ミスでは?と思っている。

ちなみにフランスの大学(国立)は無料。入学金も授業費も一切無し。1年間に必要な費用は約2,000円程度の大学登録手続費のみ。

1979年10月、Université Paris 1 Panthéon-Sorbonne / パリ第1大学パンテオン・ソルボンヌ、UFR:Histoire de l'art et Archéologie / 美術史・考古学部に入学。

5年間(学部変更に伴い、故意に1年留年したから)の貧乏学生生活が始まる。

この頃から必要に迫られ、多種類の激安ビンボーメニューの開発に携わる。

1981年5月、大学2年生の時にフランス大統領選が実施される。
保守派のジスカール・デスタンが敗れ、社会党のミッテランが大統領に選出される。
ミッテラン当選が確定した夜は国をあげての大騒ぎ。翌日、大学では当選祝いで休講になる講義が続出。

1984年10月、Université Paris 1 Panthéon-Sorbonne / パリ第1大学パンテオン・ソルボンヌ、UFR:Arts Plastiques / 造形芸術学部 Maîtrise(修士課程)修了。

1985年2月、エール・フランス、パリ空港公団が出資する会社に就職。
1986年12月、所属する部署が廃部となり、リストラされる。

1987年2月、日系企業に再就職。この頃、必要に迫られて初めてパソコンに触れる。
MicrosoftのWindows以前の主力ソフト、MS-DOSと悪戦苦闘の日々。本当に難儀なソフトだった。

1992年9月、ある事情で13年間のフランス生活に終止符。
日本は大阪に戻り、職を得る。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。スペイン、フランスに長い間住んでいたので、“対地震免疫力” が弱まっていたため、その強烈な揺れに大変驚く。

1995年3月20日、地下鉄サリン事件が発生。フランスに住んでいたので、“対テロ免疫力” はある程度高かったが、化学兵器を使用した新たなタイプの無差別テロ事件に大変驚く。

1995年6月22日、長男誕生。一児の父となる。両肩に責任の重さを感じる。

1995年12月、世の中がWindows 95で大騒ぎしている頃、必要に迫られて、また天邪鬼な性格が災いして、Macを購入。グラフィック系のソフトの習得に励む。

2000年8月、20世紀中にホームページを立ち上げることを決意。9月から雑文をこつこつと書き始る。12月下旬、クリスマス直後になんとか最初のホームページを立ち上げる。

2002年3月、息子は幼稚園を卒園、4月に小学校へ入学。よく判らない “ゆとり教育” が導入された年。

2002年9月、日本に戻って10年目。節目の年。

2004年5月、仕事が閑な時期だったので、かつてのホームページの記事を手直しし、移転してブログを立ち上げる。

2008年3月、息子は小学校を卒業。4月に私が卒業した中学校に入学。晴れて(?)私の後輩となる。

2009年8月7日(金)、バセドウ病を宣告される。初めての病気らしい病気に困惑する。

2009年9月26日(土)、かつてのブログからこのブログへ引越す。

2011年3月、息子は中学校を卒業。4月に私が通っていた高校のすぐ近所の高校に入学。晴れて(?)私のエリア的後輩となる。ちなみに息子の卒業式の午後、東北地方太平洋沖地震が発生。

2014年4月、突然、5月から名古屋への転勤辞令を受け、安城市三河安城での単身赴任生活が始まる。一人暮らしには困らなかったが、赴任地での新業務にはほとほと難儀する。

2015年1月、突然、3月から大阪への転勤辞令を受け、単身赴任生活が終わる。

2015年3月、1年の浪人生活を経て、息子が大学入学。奇しくも学部は違えど、彼の祖父と同じ大学に入学する。

2016年3月、60歳。一旦退社し、再雇用となる。給料は激減するが、業務内容は変わらず。やれやれ・・・

2021年3月、サラリーマン生活終了。目覚まし時計は失業状態となる予定。

last update 2018/11/10

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