2003年11月7日金曜日

二人の監督 : Part 3 西本幸雄と野村克也


西本と野村はほぼ同じ時代を生きた。

西本は阪急ブレーブスの監督として、野村は南海ホークスの守りの要、キャッチャーとして、また監督として、二人の闘いは60年代から70年代前半まで続いた。

1960年から1973年までの間、阪急が5回(いずれも西本監督)、南海が5回(鶴岡監督が4回、野村監督が1回、キャッチャーは常に野村)パ・リーグで優勝している。

そ して川上哲治が率いる読売ジャイアンツの9連覇が1965年から始まった。アンチ巨人派には未曾有の暗黒時代が訪れたのだ。

この間に阪急と南海が合計8回 も日本シリーズでジャイアンツに挑む。だが阪急も南海もことごとく敗れ去った。それもシリーズ第7戦目までもつれ込むことは一度も無く、2勝をあげるのが関の山だった。 それはまったくもって難儀な時代だった。



9連覇の時代は “巨人・大鵬・玉子焼き” の時代でもある。

多くの野球人にとって巨人こそが憧れのチームであり、また倒すべきチームだった。セ・リーグの各チームは公式戦の期間中、巨人と戦うことが出来た。しかしパ・リーグのチームにとって、打倒・巨人とはリーグ優勝を果たし、その後に日本シリーズでの対戦という図式しかなかった。

また巨人人気で支えられているセ・リーグとは異なり、パ・リーグはあまりにも人気が無かった。実力派の阪急ですらそのユニフォームの色から “灰色のチーム” と呼ばれていた。満員の甲子園から15分たらずの所に位置する阪急の本拠地、西宮球場にはいつも閑古鳥が鳴いていた。

西本や野村にとって、圧倒的な実力、そして全国区的な人気を誇る巨人を倒す機会を得るにはリーグ優勝が欠かせない。日本シリーズで巨人を倒すことがパ・リーグの野球人として最高の栄誉なのだ。人気では負けても実力では負けない姿を見せることが悲願なのだ。

こうして当時のパ・リーグを代表する関西の2チーム、阪急と南海は日本シリーズでの巨人戦に辿り着くため、お互い知恵を絞り、しのぎを削った。



考えろ!



阪急 vs. 南海の闘い、その知恵くらべがID野球の原点でなないだろうか?

野村は名将・鶴岡監督の下で自分に足りないセンス、パワーなどを補う為にデータを活用した戦術を練り始める。それは自分を弱者として捉え、それでも強者に勝 つためには何をするべきか? とういう問いから始まっている。キャッチャーの目から相手投手のクセを見つけだし、それを元に打ち崩すなど、そんな努力は1965年、三冠王として結実する。

話は横にそれるが、75年に大活躍した阪急の速球派投手、山口高志のクセを見抜き、打ち崩し、そして結果的に山口を “潰した” のは当時監督を兼務していた野村だ。

非力な自分が強者である西本・阪急に対して、そしてそれ勝るとも劣らない強者である川上・巨人に対して如何に戦い、勝利を納めるか? それが野村の課題であった。

そんな野村の野球観に決定的な影響を与えたのが阪急ブレーブスの二塁手、ダリル・スペンサーであり、南海ホークスの二塁手、ドン・ブレイザーだ。

※ 関連ページ ≫ 二人の二塁手

この二人の二塁手が日本野球界もたらしたものは大きい。

update 2003/11

二人の監督 : Part 1 西本幸雄と星野仙一
二人の監督 : Part 2 星野仙一と野村克也

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